母が入院して、かれこれ2週間。 目に見えて、回復してきているようなので、ちょっと安心しています。 昨日は少しだけれど、2週間ぶりに甘いもの食べて、「幸せだ!!」を連発していました。 僕は、なんか安心して、どっと疲れが出てきました。 そんなわけで、今日は手軽なピースのスケッチです。 寒い冬、ピースは日中、ハウスのある寝室ではなく、暖房の効いたリビングで過ごします。 お腹が空いたり、散歩の時間が近づくと、足元に来てこちらの様子をうかがうような感じで寝てしまいます。 具体的に何か催促がましい行動をとることはないのですが、目力が凄いです。 それ以外は、ソファや専用のベッドの上を転々としながら爆睡しています。・・・時々すごいイビキをかきます。 ネタがない時、いつもピースに助けられます。 モレスキン・ポケットスケッチノート。 母の入院で、ブログの更新も休まざるを得ないかと思ったのですが、何とか継続することが出来ました。 ここで、休むと復帰に時間がかかってしまいそうなので、頑張ります。 にほんブログ村
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タイトルにあまり深い意味はありません。 どうでもいい話題です。 でも、あえて言えばリュックサックはドイツ語で山登りや、ハイキング用、バックパックは英語で街中や通勤用に使うらしく、ちなみにナップザックはオランダ語で小物を入れるものだそうです。 若い頃はバックパックなどというオシャレな言い方は無くて、全てリュックサックと言っていましたけどね。(笑) さて、今日の絵は普段愛用の分類から言うとバックパックです。 米国のバッグメーカーの老舗サムソナイト社製です。 海外赴任の北京で購入したので、かれこれ10年近く使っています。 現役中は通勤や出張の時にラップトップPCを持ち運ぶために使っていました。 ポケットも沢山あるし、容積も多く、何より丈夫なので重宝していました。 退職後は、ちょっとした屋外スケッチ等に使っていました。 F4とアルミの椅子、画材、ペットボトルが楽に収容できました。 そして、今は病院の往復、定番モレスキンスケッチキットの他、母の洗濯物や時々「シューマイ弁当」2つを運ぶのに使っています。(笑) 久しぶりに、SMサイズ。 最近はラップトップPCも薄く軽量になり、何より、タブレットのおかげで、こういうPCの入る頑丈なデイパックは見かけなくなりましたね。 僕も、色々浮気したけれど、やっぱり最初に惚れた、こいつがいい・・・(笑) 余談ですが、最近ほとんどの若い人は、肩紐を長くして腰のあたりで背負って(?)いますね。 あれはファッションなのか、そのほうが楽なのか、どちらなんでしょうか。? にほんブログ村
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母の見舞いの時、話題になった叔父の話です。 「中田功(なかた・いさお)」は僕の母方の叔父。5男7女12人兄弟だった母は3女で4番目、功は3男で7番目になります。 功叔父は、祖父が事業に失敗したため、看板屋で働きながら美術の勉強をし、デザイナーとして独立しました。 専門はレタリング(文字のデザインですね。)で、文芸春秋、NEC、阪急交通などの社名ロゴやマークをデザインし、関係する著作も多数あります。 並行して、芸大デザイン科の非常勤講師や、横浜美術短期大学の教授を務めました。 子供の時に母と別れた私は、ほとんど母方の親類とは接触がなく、功叔父とは私が社会人になった30代の時に再会しましたが、それも、正月に母の所で顔を合わせるぐらいでした。 そんな、功叔父が定年後、描きためていた作品で個展をひらくというので、母と銀座のギャラリーを訪ねました。 2001年1月、銀座文藝春秋画廊、その時の、カタログがこれです。 作品のサインはペンネームの「Ko Nakata」になっています。 何と、作品は全てが様々なモチーフをアクリルレンジで細密に描写した作品でした。 当然というか、母の小さな世界の小物達もシリーズ数点に出演しています。 作品「Recess・休憩」・・・母のミニチュアバイオリンがいます。 ・・・カタログより抜粋。 「記号、文字、紋様」等の、隠された意味を持つ具象物の集合です。 絵画的カテゴリーとデザイン的効果が混ざり合った表現、言葉で表せば「フィギュール=Figure」に相当します。 デザインの実務と造形美術教育を併行させながら、描きためた私自身との対峙実験です。」 功叔父は2003年に73歳でなくなりました。 亡くなって2年後に遺作展が開催され、その後、作品は全て大学に寄贈されました。 功叔父とは、絵や芸術について、生前じっくり話したことはありませんでした。 当時現役だった僕は仕事に追われ絵を描きたいという情熱を全く喪失していて、無意識にそれから逃げていたのかもしれません。 叔父が描いていた細密画の世界、その時は気が付かなかったけれど、僕の心の中に何かメッセージと小さな火種を残していたのだと思います。 死後5年、劇的に功叔父が再び私の前に現れました。 退職後専門的に美術の技術を学びたいと、選んだのが「トルコ細密画」でした。 そして、その日本では数人しかいないトルコ細密画の先生が、何と功叔父の教え子、そして同じ大学で教壇にたっていたのです。 なんという、偶然でしょうか。 だから僕が、こうして細密な絵を書くようになった事に、ちょっと因縁めいたものを感じるのです。 改めて2冊の画集を手にすると、何のために、何を描くのか、そしてどう描き、どう表現するのか、それより何より自分とって描くということはどういうことなのか?、それを教えられる思いです。 母は最近の僕の作品を見るたびに、「功が生きていたら、・・・功に見せたかった。・・・」と繰り返し、繰り返し話します。 功叔父が生きていたら、今の僕の絵をどう評価してくれるのでしょうか。? 曽祖父は銀細工師、祖父は鉛板加工職人、叔母には書道家、叔父は美術の教授、他に母を含め絵を描く兄弟は沢山、四国の教会に嫁いだ叔母も何回も個展を開いています。 間違いなく僕は母方の血筋です。 にほんブログ村ネットで名前を検索すると同性同名の棋士のデータしかヒットしません。 今後、この記事がヒットされればアーチストとしての「中田功」を記録しておく事ができます。 ※22日18時一部修正、加筆しました。
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毎日、昼前にコンビニ弁当を買って母を見舞います。 お昼を一緒に食べて、少しおしゃべりしてご機嫌をとり、疲れてうたたねを始めた母をしばし見守り、洗い物を持って帰ります。 毎日の繰り返し、もう話す事も無くなってきました。(笑) 先週末、ふと思いついて病院の帰りに、母と6歳まで過ごした「森ケ崎」へ行ってみようと思い立ちました。 通っていた小学校の正門からからちょっと行った左側、記憶を頼りに、その場所を目指しました。 病院から、10分足らず、目指す場所はすぐ見つかりました。 その場所は、今は小さな公園になっていました。 自転車乗り入れ禁止、サッカー・野球などの遊びも禁止、遊具はブランコだけ、ベンチは2つ、老人が所在無げに座っているだけの、今は東京ではどこにでも見かける、子供の遊び声の聞こえない寂しい公園でした。 幸い家が建っていないので、通りからそこを眺めると、遠い記憶からイメージが蘇ってきました。 当時は町工場があって、裏には水たまりのような小さな池がありました。 工場の門を入ると右手に井戸があって、その奥の事務所を改装して、母の家族が住んでいました。 当時,一家はクリスチャン、毎週日曜には使われていない工場で日曜学校が開かれていました。 そういえば、当時この周辺は海苔の名産地で、そこらじゅうに海苔が天日干しされていて、町全体が海苔の香りのする町でした。 何か、寂しいような、ほっとするような、妙な感覚でした。 おまけ。 サイズが小さくピンが甘い写真から描き起こした6歳の私。・・・だから、若干美化してしまったかも。(笑) にほんブログ村
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先週金曜日に、うれしい知らせがあったことを報告しました。 先週木曜に、私の敬愛する「永沢先生」から、先生が教室で毎月配布しているニュースレターの2014年1月度版と先生の自筆の手紙が送られてきたのです。 ニュースレターはペンスケッチのプロを目指す教室の生徒たちに、創作していくための様々なヒントを、先生独自の切り口で解説して配布するものです。 内容は、先生のブログ「sketch report」でも読むことが出来ます。 大げさですが、先生の教室を退学した後も、僕にとってはこの「Sketch report」と「今月の一言」はバイブルのように大事なもので、毎月刺激や気付きをもらっていました。 「Sketch Report」は、毎年1月号で先生が前年に活動した門下生の中から6名を選び「永沢まこと賞」として特集しています。 そして、何と今回は私がその第10回永沢まこと賞受賞対象に選ばれたというのがそのお知らせだったのです。 「東京スケッチしよう会」の高橋先生、佐々木先生も過去に受賞しています。 今回はノートスケッチで僕に大きな影響を下さった、関本先生も同時に2度目の受賞をしています。 この賞の受賞は、永沢先生の門下生の僕にとっては、あこがれであり、目標でもありました。 初めて、地元のカルチャースクールで高橋先生の「永沢流ペンスケッチ」に巡り合い、それから6年目にしての受賞です。 先生の新宿教室を離れてから、教わった基本をベースに自分なりのスタイルを模索しつつの3年間でした。 ああ、認めてもらえたんだなぁ、頑張ってきて良かったなあ、なんてしばし感慨にふけってしまいました。 ニュースレターから抜粋します。 「私が、具象絵画の基本として提起した「線描きによる現場写生」、(中略)を示してから17年たちました。 この方法で本格的に絵を描き始めた方々の中から、それぞれの努力によって多様なスタイルが生まれてきました。 現場で線写生にこだわり続ける人、現場写生をもとにしつつ独自の感性でアレンジに挑戦する人など様々です。 また、マスメディアや広告等にイラストレーターとして進出する方もおります。 そうした展開の中から6名の方を選出しました。・・・・・・」 そして、ニュースレターの僕の紹介記事にこんなコメントがありました。 「グレートーンの重量感ある作品、モチーフも多様、何故かこのワールドに入ってしっとり落ち着きながらも、次の動きをうかがっているようです。」・・・う~ん、このまま喜んでいるだけでは済まなそうです。(笑) 永沢先生、ありがとうございます。 今回の受賞を励みに、先生の言葉通り、絵を描きまくり、その絵を描くことを通して、自分の生きている意味を考え続け、問い続けながら自己形成に向かっていく、そんな先生の言うプロを目指し続けます。 昨夜、先生のブログで発表されたので、改めて報告させていただきました。 先生の、ブログです。→ 「永沢まこと オフィシャルブログ」にほんブログ村
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日常を記録するこのブログ、しばらく母の介護の話が続きそうです。 毎日、母の留守宅に寄ってから病院へ向かいます。 昨日、部屋を出る時に確認のため振り返ったら、目についたのがこのハンチング。 デイケアに持参するバッグの上に置かれていました。 外出時に日の光が眩しいので、つばのついた帽子がほしいという母のリクエストで、最近あまり使っていなかったこの帽子を先週あのスケッチと一緒に持ってきたのです。 実は、この帽子、僕が初めて買ったハンチングなのです。→ その時の記事。母に被せたら、以外に似合います。(笑) 鏡に映った姿を見て、「そうそう、こういうのが欲しかったんだよ。」と本人も気に入ってくれました。 買い物や、通院、デイケアに行くときに被っていくと言っていたのですが、残念ながら翌日入院。 早く良くなって、この帽子をかぶっていろいろ外出出来るようになればいいのですが。 正確には「キャスケット」というらしいです。 さて、昨日夕方帰宅した僕を思いがけない2つの嬉しい便りが待っていました。 一つは、同じペンスケッチを楽しむブロ友さんから、心のこもった便りとプレゼント。 そして、もう一つは僕が尊敬する方からの思いがけない知らせでした。 具体的な内容は。後日改めてご報告できると思います。 おかげで、母の入院でちょっと落ち込んでいた気持ちが、とても、とても、軽くなりました。 にほんブログ村
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母の見舞いの日課は続いています。 昨日は、気管支内視鏡検査、年齢的にリスクも大きいという事で朝一から付き添いです。 検査が終わって、麻酔が覚めて、昼食が食べれるようになるまで付き添ってきました。 肉体的にはいるだけなので体力は使いませんが、何かをしようとしても、かえって邪魔になってしまう。 全て、看護士さんに頼りきりという状況は、精神的に疲れるものです。 母は、いたれり、つくせり、食事も美味いし、ずっとここにいられればいいのにと言いはじめました。(笑) シューマイ弁当、色入りました。 色入れ終わって、何か物足りないと思ったら「割りばし」がありませんでした。 箸が無いと、食べられませんからね。 慌てて、描き加えたのですが、ちょっとバランスがおかしくなってしまいました。 こういう食べ物を描いたときに、つくづく感じるのは、はたして美味そうに見えるか?なのです。 業界用語で「シズル感」、難しいです。 それから、遅くなりましたが報告があります。追記をご覧ください。 にほんブログ村
先週、発表された直木賞の受賞者「姫野カオルコ」さん、実は我がマンションの住人。 しかも、副理事長さんなのです。 僕が理事長になって2年、一緒にマンション管理の見直しをやってきました。 住人向けの連絡は姫野さんの手書きメッセージ(これが、またユニーク。)です。 インタビュー記事が色々出ていますが、ご本人はとてもチャーミングでユニーク、全くあの通りの人なのです。 ピースもとても慣れていて、可愛がってもらっています。 今、マンションのロビーは受賞祝いの生花のおこぼれで、とても華やかなのです。 これから、気楽に手書きメッセージの作成、頼みにくいなぁと、ちょっと思っている私です。 ちょっと、ご報告でした。
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母の住まいは、大田区の梅屋敷にある区の単身高齢者用住宅です。 そこから救急車で搬送されたのが、現在入院している大森にある総合病院です。 偶然なのですが、この病院からほんの目と鼻の先に、もう地名では残っていませんが「森ケ崎」というところがあります。 実は、そこは6歳で母と別れるまで一緒に住んでいた場所なのです。 母とは、共有すべき大事な時を一緒に過ごしてこなかったという事実、そして実の親子でありながら他人という何ともぎこちない親子関係が今迄続いてきたのです。 でも、再び同じ場所でこうして母と一緒にいるというのが、何か因縁めいた感じがします。 今、入院している病院は老人医療が充実していて、対応も良く、何より食事が立派。 母は、介護士さんんから世話を焼いてもらい、美味しい食事を食べて、生きる事への執着が再び生まれてきたように見えます。 頑固で、グルメの母には、優しい言葉と美味しい食事が何よりの特効薬のようです。(笑) 昨日、救急病棟から一般病棟に移りました。 「頑張って。」は禁句、でも母の口から「頑張る。」という言葉が自然に出るようになりました。 今日のスケッチは「横浜・崎陽軒のシューマイ弁当」です。 僕は、弁当の名作だと思っています。 母の所を訪問するとき、月に何度かは乗換駅の売店で買って行った、この「シューマイ弁当」 母の好物で、母はお昼に半分食べて、残りは夕食にします。 そして、たまに僕も訪問の帰りに2つ買って帰って、私たちの夕食になったりします。 だから、この「シューマイ弁当」は母の介護の思い出の一品なのです。 早く、また一緒に食べられる時が来ると良いのですが。・・・ まず、ペンスケッチ。 そして、グレーバージョン。 実は、昨日も買ってかえったのです。 にほんブログ村
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母の入院、今日で4日目です。 僕に、新しい日課が加わりました。 毎日、梅屋敷の母の家に立ち寄り、郵便の確認、ゴミ出し、植木の水やり、いつもベランダに遊びに来る雀にパンくずをあげて、新聞を持って病院へ向かいます。 あの日、頑固な母は、具合が悪いのに無理をして、朝刊を取りに向かったエレベーターの中で倒れてしまったのです。 病名は肺炎、担当医師から齢とともに抵抗力が落ちてしまっているので、結構重症だと伝えられました。 肺炎は90歳以上の死亡原因の第一位だそうなので、正直心配です。 入院当初、食事はせき込むと呼吸器に入ってしまうので、点滴で栄養を補っていました。 倒れた日は朝食前だったので、ずっと「ああ、朝食食べておけば良かった。」を連発していました。(笑) 二日目の夜から普通に食べる事が出来るようになって、今日は少し元気になった感じがします。 退院まで、長い勝負になりそうです。 にほんブログ村
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先週末、完成したスケッチを持って母を訪問しました。 「うれしいねエ~、うまいね~。」と絵をさすりながら大喜び。・・・・想定内です。 「これから、ふと見たくなった時、寒い玄関に行かなくてもいいのが嬉しい。」・・・なるほど、それは想定外でした。 そして、「死んだら、お棺にこの絵を入れてほしいよ。」・・・・はい、実は、そのつもりで描いたのです。(笑) 描いた僕も満足、母も満足、納得した作品になりました。 2年前、圧迫骨折で寝たきりになった時、「万が一の時」の事を話したがる母を励ますために、そういう話を一切拒否してきました。・・・・それが、親子ゲンカの原因になったりもしました。 しかし、最近めっきり体の弱った母の状態を見るにつけ、もう避けてはいられないと思い直し、昨年末頃から少しずつ話を聞くようにしてきました。 遺言書の事、連絡先、墓の事、葬儀の事、植木の事、あれやこれや・・・ 辛い話も、冗談を含めて明るく、楽しく、話が出来るようになりました。 この「母の小さな世界」も母の気になっていた事の一つだったのです。 母、「ああ、これで安心だ。」。・・・・僕も、これで良かったんだなぁと一安心。 部分です。 全てが描かれているわけではありませんが、「ああ、これもある、あれもある・・・・」母は、いつまでも、いつまでも、絵をなぜていました。 偶然か、どうか? その翌日の朝、母が倒れて、救急車で搬送される事態になってしまいました。 前日は、ご機嫌で僕を見送っていたのです。 そのまま、入院という事になりました。 まさか、安心した事で、頑張ろうという気が緩んでしまったんじゃないのか、と、すこし気に病んでいる私です。 そういうわけで、先週末から病院通いです。 新作の更新が不定期になるかもしれません。 にほんブログ村
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